2018-05-29 第196回国会 参議院 文教科学委員会 第12号
これまでこの研究で、湯川秀樹氏、朝永振一郎氏、小柴昌俊氏を始めとしたそうそうたる先生方がノーベル物理学賞を受賞されてきましたが、その素粒子物理学の研究にはこの加速器が重要な役割を果たしてきたということが言えます。日本は世界が認める素粒子物理学と加速器技術の大国と言えるでしょう。
これまでこの研究で、湯川秀樹氏、朝永振一郎氏、小柴昌俊氏を始めとしたそうそうたる先生方がノーベル物理学賞を受賞されてきましたが、その素粒子物理学の研究にはこの加速器が重要な役割を果たしてきたということが言えます。日本は世界が認める素粒子物理学と加速器技術の大国と言えるでしょう。
ノーベル物理学賞を受賞された朝永振一郎先生は、不思議だと思うこと、これが科学の芽です、よく観察して確かめ、そして考えること、これが科学の茎です、そうして最後になぞが解ける、これが科学の花ですとおっしゃいました。子供たちの創造性をはぐくむとともに、基礎科学で咲かせた花は、社会への還元させる大きな果実として実らせないといけません。 科学技術の世界は、海外との競争です。
ノーベル物理学賞を受賞された朝永振一郎先生は、「ふしぎだと思うこと、これが科学の芽です。よく観察してたしかめ、そして考えること、これが科学の茎です。そうして最後になぞがとける、これが科学の花です。」とおっしゃいました。子供たちの創造性をはぐくむとともに、基礎科学で咲かせた花は、社会へと還元させる大きな果実として実らせないといけません。 科学技術の世界は海外との競争です。
そのとき、当時の沖縄の知識人たち、リーダーたちは、ノーベル賞をもらった湯川博士を始め、朝永振一郎博士とか東京大学の総長を次々と異民族統治下の沖縄にお招きをして講演をしていただいて、とりわけ琉球大学にはこういう先生方ずっとお招きして御講演をいただいたわけです。
そのときに、使われる前に、多くの物理学者、科学者、技術者は、反対の声明を出したり、大統領に要請したりするんですが、結局押し切られてしまったというところから、戦後、科学者の皆さんの間で、科学技術者の社会的責任という考え方、非常に深刻な反省の中からそういう声が広がり、それが哲学者のバートランド・ラッセルだとかアインシュタイン博士や、日本でいえば湯川秀樹、朝永振一郎、坂田昌一など著名な物理学者たちを中心にして
度々私は、古くは湯川秀樹先生の中間子理論、朝永振一郎先生のくりこみ理論、福井謙一先生のフロンティア電子理論、最近では野依さんの触媒による不斉合成、小柴昌俊さんのニュートリノ天文学のどれもがボトムアップの精神によって成功した大研究であり、ボトムアップの精神によって伸びた大研究であり、トップダウンで行われたものではないということを繰り返し強調してまいりました。
さらに、日本の今までのノーベル賞の受賞者を全部見てみますと、湯川秀樹さん京都帝国大学、朝永振一郎さん京都帝国大学、川端康成さん東京帝国大学、江崎玲於奈さん東京大学、佐藤栄作さん東京帝国大学、福井謙一さん京都帝国大学、利根川進さん京都大学、大江健三郎さん東京大学、白川英樹さん東京工業大学、野依良治さん京都大学、昨年の小柴昌俊さんが東京大学で、そして田中耕一さんが東北大学、全員が国立大学出身者です。
理化学研究所についてお伺いしたいんですが、これは私は賛成の立場なものですけれども、これは、過去にもうすばらしい先生方が、長岡半太郎先生、本多光太郎先生、鈴木梅太郎先生、湯川秀樹先生、朝永振一郎先生、こういう先生方がもちろんノーベル物理学賞を受賞されたり、もうすごくこの国の、私たち今こうして世界の中でトップクラスの教育を受けていると言われるぐらいの国にもなったわけですが、これ設立されたのは、長岡半太郎先生
そして、何か御本人も、大学では決して物すごく勉強ができたというわけではなかったと、東京大学の物理の中でとおっしゃっていましたけれども、その彼が留学をしたいと言われたときに、その当時の留学を審査する先生だったんでしょう、朝永振一郎、これもノーベル賞をもらわれた博士が、米国ロチェスター大学留学の推薦状は、成績はよくないけれども、それほどばかじゃないと自分で書いて、にやにや笑う博士の署名をもらったということで
湯川秀樹先生、朝永振一郎先生、江崎玲於奈先生、福井謙一先生、利根川進先生、白川英樹先生でございますが、実は、この戦後五十五年間にほかの国がどうかということを見ますと、アメリカが百八十人、イギリスが四十四人、ドイツが二十七人、フランスが十人という方々が自然科学系のノーベル賞をとっているわけでございます。
この部員会には湯川秀樹先生、朝永振一郎先生、坂田昌一先生というそうそうたる先生方も参加されて一緒に議論してきたわけです。そこでは、全国の研究のアクティビティーをどう上げていくか、それから、その研究所のアクティビティーをどう上げていくかということを一体のものとして議論してきました。
私自身は素粒子グループに属しておりまして、このグループは、湯川秀樹先生、朝永振一郎先生、坂田昌一先生という世界の先駆者の伝統を我々は受け継いでいるわけであります。一九五三年に京都大学に湯川先生を所長とした基礎物理学研究所が創立されました。この研究所ではごく当初より教授、助教授、助手の全所員に任期制が導入されております。
これらについては、詳しくは湯川秀樹博士や朝永振一郎博士らの著書などに譲ることとしたいと思いますが、日本の戦後の科学研究の歴史も、実はその道を明確にしてきました。 一九四九年の第一回日本学術会議総会声明では、我が国科学者がとってきた態度について強く反省し、平和的復興に貢献せんことを誓う。
かつて湯川秀樹さんなり、あるいはまた朝永振一郎さんを生み出したその部屋も見せていただきました。正直言ってこんなことでは本当に大変なことだなということをつくづく感じた次第です。 現在使用している学生用実験設備を見ました。一九五五年に製造したエックス線照射装置、今から三十九年前につくられたもので、絶縁が悪くてショートするため出力を下げて使用される。もう製造中止になっているため交換部品も手に入らない。
ノーベル賞学者の朝永振一郎さん、この方はかつて理科の教科書をつくられたことがある。非常に内容が少なくて検定を通らなかった。その朝永さんいわく、たくさん教えちゃだめだ、本当に力をつけるには少ししか教えなきゃいかぬ、少しにしなさい、全部やる必要はないんだと。ドイツ人は保守的と言われますが、すき間をつくること、すき間への勇気ということを言う。むしろそれが思考力を発揮できみことなんだ。
日本でも湯川秀樹博士あるいは朝永振一郎博士等非常にすぐれた学者であり研究者であり、そしてまた教育者としても本当にすばらしい方がおいでになったわけでありますし、この両先生の門下生と言われる人たちがその後の日本の物理学を背負って立つすばらしい学者あるいは教育者として育っていったということはどなたもお認めになると思うのです。
その次の国際協力についての五原則は、ノーベル賞を受けられました朝永振一郎先生が会長のときにつくられたものでございますが、この五原則をつくりますために、三日間の総会のすべての日程を費やしたと記録に残っております。それで、ほかの項目の審議のために臨時に一カ月後に総会を開いておりますが、そういうふうな非常な議論の後にできました五原則がそこにあります五つでございまして、「平和への貢献を目的とすべきこと。」
実は、この原子力平和利用三原則の声明のもとになりましたのは、これは伏見先生も所属しておられました日本学術会議の原子力特別委員会、あるいは私も委員をしておりました原子核特別委員会、この委員会は朝永振一郎先生が委員長をしておられたわけですが、その委員会等におきまして種々検討の結果この原子力平和利用三原則というものが生まれてきたわけであります。
その点につきましては、先ほど申し上げました学術会議の原子核特別委員会での朝永振一郎先生の御努力というものに対しては、今思い出しても本当に頭の下がる思いがするわけであります。 私たちが議論しましたのは、どうやって日本の原子力研究が軍事研究にかかわりを持たないようにすることができるか。
その後、一九七五年にまた京都でもってシンポジウムが開かれておりまするけれども、朝永振一郎博士は、「核兵器やそれを運ぶミサイルに関して技術突破があると、抑止論の第一前提である釣り合いがとたんに破れてしまうことです。……そのたびごとに釣り合いを取り戻すような何か新しいものが作られる。
この問題で、亡くなられました朝永振一郎博士が言っていらっしゃいますが、若い人たちは、ほとんど九〇%までが、何らかのアルバイトなしに研究生活が続けられないありさまである、研究意欲は盛んでも、経済的な裏づけがなくては十分な成績が上がらない、仮に、成績はそう気にしないとしても、最も恐るべきは、やがて意欲それ自体が失われることである、やがて跡を継ぐ若者がなくなるということである。